”変わりゆく今日のキューバとその魅力”希代統キューバ友好協会副理事長
キューバの歴史を学ぼう~キューバ友好協会機関紙より (許可を頂いて転載します)
(「その1」がネット上に保存してなかったようで、「2」からです、済みません)
希代統キューバ友好協会副理事長
変わりゆく今日のキューバとその魅力 その2
1800年代に入り、ハイチ独立(1804)でハイチから逃れた人々がキューバ東部に移住してきた。その後ベネズエラ(1811)、パラグアイ(1813)、アルゼンチン(1816)、チリ(1818)、コロンビア(1819)、メキシコ、ペルー(1821)、ボリビア、ウルグアイ(1825)とLA諸国の独立が相次ぐ。
モンロー宣言(1823年) 米の対LA政策の原則、勢力圏、裏庭の歴史的基礎となる。米国は建国以来ずっと領土拡張政策と人種主義の国である。
1824年の「アヤクチョの戦い」で南アメリカでの最後のスペイン軍が敗北したことで、残るスペインの植民地は、キューバ、プエルトリコ、フィリピンのみとなった。「自由の名の下に、南北アメリカに貧困」をはびこ
らせようとする米国を排除し、キューバとプエルトリコの解放もめざしていたボリバルの努力を知っていた独立を求めるキューバ人たちを鼓舞した。ボリバルをはじめ新生ラテンアメリカ共和国各国の統治者たちのキューバ独立の大義を支援する行動に、米政府は大きな恐れを抱いた。キューバとプエルトリコをその地理的位置から北米大陸の自然の付属物であり、リンゴが熟して木から落ちるように、スペインから分離されれば不可避的に米国の支配下になるという、「熟した果実」政策をとる米国は武力で解放するボリバルの計画に反対した。
1831年にはキューバ貿易の3分の一以上が米国相手で、その輸送を支配していたのも米国だった。しかし、黒人奴隷の労働力による砂糖とたばこを主とする輸出農産物に支えられた経済は重要な発展をしており、当時世界一の砂糖輸出国であったキューバは植民地宗主国にとっては非常に利益のあがる植民地だった。スペイン政府は厳しい関税を課し、本国のカタルニアの繊維織物とカスティリアの小麦粉の独占市場にした。この措置は隣国の米国から良質の製品がより安く入手できるキューバに明らかな損害を与えた。スペインの覇権はますます本国との貿易で利益を経ている奴隷主の支配者集団の利益擁護に基盤を置くようになっていった。
1839年にアミスタッドの反乱(”Amistad”)1845年 「明白な天命」宣言で、南北アメリカを支配するのは米国に与えられた歴史的使命であると主張。1846年から米南部の奴隷主と結びついていた併合主義者たちの活動が活発になった。1848年と1853年には米大統領がスペインに対しキューバ買収を持ちかけ、1857年に大統領となったブキャナンは選挙運動でキューバ買収を公約に掲げた。マルクスも「南北戦争(1861〜65)に敗れ、1866年の奴隷廃止で南部の一部の奴隷農場主たちもキューバに渡りプランテーション経営に乗り出した。
1860年代初めにキューバを訪問した後にSebastián Yradier(1809-1865)が作曲したLa Paloma。1868年(日本の明治維新の年)~1878年のGrito de Yara-最初の独立をめざす10年戦争がおこるが独立は達成されず。
1875年 Ignacio Cervantes (1847-1905)は独立運動に共鳴していたが、突然、将軍に呼び出され、「あなたのコンサートの収入が反乱者たちに渡っている。逮捕する前に国外へ出よ。」と言われ、米国へ亡命した。キューバを離れる思いを込めて作曲したのがAdiós a Cubaと言われている。
この頃、スペイン本国ではバスクの製鉄業、カタルニアの繊維業、カスティージャの穀物業、首都のマドリードと農村との貧富の格差が広がり、農村からキューバへ移住者が増加した。カストロの両親もその後キューバへ。
1879年 José Martí (1853-1895)が米国でキューバ革命党を創立、Máximo Gómez将軍 (1836-1905)とAntonio Maceo将軍
(1845-1896)とともに独立戦争を再開する準備へ。Martíは政治家(作家、詩人)として、世代、人種、社会的地位をこえてキューバの民族主義勢力をまとめるのに大きな力を発揮した。
1875年に15歳だったIsaac
Albéniz(1860-1909)がハバナでコンサートを開く。(Suite Españolaのなかの1曲にCubaという曲があり、その他にもBajo las palmeras.
1880年2月17日 キューバでの奴隷制廃止(プエルトリコの7年後)。1492年から1870年のあいだにキューバへ輸出された奴隷の数は702,000人といわれている。1895年2月24日 Grito de Baireとともに独立戦争が始まる。(フィリピンでもJosé Rizal (1861-1896)を中心に独立をめざす戦いが始まった)Martíは4月11日キューバ上陸、反乱軍と合流しスペイン軍との5月19日の戦闘中に戦死。1890年代からキューバへの米の大規模な投資が主としてサトウキビ栽培にはじまり、1895年には米がキューバ糖の最大輸入国に。その他、たばこ、ニッケル、運輸事業にも投資。1893年1月 米がハワイを併合させる処置をとる。ハワイとキューバ、プエルトリコは併合する価値ある島々と米が狙っていた場所だった。
1898年 米国は戦艦「メーン」号をハバナ湾へ、2月15日湾内に停泊中爆沈し266名死亡、Joseph Pulitzer (1847-1911)とWilliam Randolph Hearst (1863-1951)の系列の新聞がキューバでの戦争についてセンセーショナルな記事を書きまくって、スペイン排斥の機運をかき立てた。これを機に独立戦争に介入し、4月19日米国議会はキューバ島民の独立承認、4月25日米国スペインに宣戦布告し、キューバとプエルトリコの封鎖を宣言、1898年6月米軍キューバ上陸、一方で同年7月米軍がハワイに戒厳令を敷き、続いて正式に併合し、さらにフィリピンも占領。1898年12月 パリ条約でプエルトリコ、フィリピン、グアムをスペインが米国に譲渡。キューバは米国の「保護」下に独立へ。 (以下次号に続く)
変わりゆく今日のキューバとその魅力 その3
米のキューバ軍事占領(1898−1902)で20世紀が始まる。
1902年5月20日 共和国として独立するが、米の事実上の植民地として、プラット修正条項(米の干渉権)がキューバ憲法(1902−1934)に押し付けられ、キューバの主権は大きな制約を受けることに。
グアンタナモ基地の永久租借権。
1903年の相互通商条約でキューバ経済は米国の支配下に(砂糖のモノカルチャー、1925年には米企業が製糖工場の46%、サトウキビ栽培の60%を支配)。
1906年 指導者間の意見対立、政治腐敗、植民地支配の残した社会問題などから武力対立が起こり、それを理由に米が介入、1908年まで軍事占領支配、その後、キューバの大統領が選出されるが、米が後見人となる状況が1925年まで続く、マチャード大統領の独裁政治、一定の経済発展が見られたものの、1929年の世界大恐慌で農産物輸出価格暴落、貧困が広がる。
「米の禁酒法(1920−1933年まで13年10ヶ月)。飲料用アルコールの製造、販売、運搬などを禁止、自宅での飲酒は可」より酒の密造、密輸が増加、カナダからの酒の密輸を一手に仕切っていたのが、シカゴのアルカポネなどのマフィア。稼いだ金で警察、裁判所、政治家を買収。1920年以前のマフィアの主な活動はギャンブルと窃盗だったが、禁酒法時代に密造酒販売で大いに繁栄した。”THE UNTOUCHABLES”。この頃から、禁酒法をくぐり抜けるため、マフィアもキューバに進出し、糖蜜をカナダへ輸送し、ハバナでは米国からの観光客目当てのギャンブルと売春にも乗り出した。
1933年9月4日 マチャード政府をクーデタで倒したバチスタが、米のお墨付きをもらい、軍とキングメーカーとして実権を握り、1934年1月14日にグラウ サンマルティン臨時大統領を辞任に追い込み、メンディエタ(1934−35)、バルネー(35−36)、ゴメス(36)、ラレド ブルー(36−40)を大統領に据えて、背後から操り、米国好みの「強い男」として、それまでの30年来の政治腐敗を続けた。
1930年にFederico García Lorcaがニューヨークに滞在後、Fernando Ortizの招きでキューバを訪問し3月から6月にかけて約3ヶ月滞在し、Ciénaga de Zapata, Valle de Viñales, Valle de Yumurí, Santiago de Cuba, Varaderoなどを訪れ、「わが人生で最良の日々」を過ごしたと友人宛の手紙に書き、父親には手紙で、「もし、私がいなくなったらキューバで探してください。」と言い、mulataの美しさ、優雅さをほめたたえていたと言われています。
1940年には40年憲法下での初の選挙で、仇敵のグラウ サンマルティンを破って、バチスタ自ら大統領の椅子に座るチャンスがきた。この間に米国との通商関係が増加したが、国民は戦争関連の税金に苦しむことになった。
日本のパールハーバー攻撃(1941/12/7)で米国が参戦し、キューバも同盟国として、日本人移民の財産没収し収容所(1941−46)へ。
1944年 グラウ サンマルティンが大統領になり、選挙に敗れたバチスタは権力の放棄を余儀なくされ、フロリダのデイトナビーチへ(カジノ経営)、そこでマフィアとの関係が深まる。その間1948年に上院議員に当選。1946年12月 ホテル ナシオナルでマフィアのハバナ会議が開催される。
ホスト役は、当時米から国外追放されていた故国イタリアから密かにカラカスを経由してメキシコシティから自家用機で来たLucianoとLanskyがホスト役で、ニューヨーク、シカゴ、バッファロー、ニューオリンズ、タンパ、ユダヤ系シンジケートの代表者たちが集合した。最も重要な議題の一つが麻薬取引だった。
La Cosa Nostraは1920〜80年代、ラテン系、アジア、中東(コロンビア人、メキシコ人、中国人、ベトナム人、トルコ人、パキスタン人)の麻薬王たちが台頭してくるまでは、米国で最大の麻薬(ヘロイン、コカイン、マリフアナ)輸入を取り仕切っていた。国外追放でイタリアにいたLucianoが作ったのが50年代の「フレンチ コネクション」である。当時イタリアではヘロイン製造は合法だった。この会議で麻薬をイタリアからキューバを経由して米国へ、とくにマフィアが支配していたニューヨーク(Luciano)、ニューオルリンズ(Carlos Marcello)、タンパ(Trafficante)の港へ送り、それぞれのFamilyが麻薬取引支配の領分を取り決めた。キューバ革命でバチスタが打倒され、マフィアは米国への麻薬持ち込みのための拠点と倉庫を新たに探さざるを得なくなったが、La Cosa Nostraのその後の麻薬取引の繁栄はすべてキューバとこのハバナ会議から始まったのである。(”FRENCH CONNECTION”)。このときカムフラージュのためFrank Sinatraもパーティーを盛り上げる歌手としてハバナにつれてこられた。
1947年2月 ニューヨークの新聞にLucianoがキューバにいるとの記事が出て、麻薬取締捜査官がトルーマン大統領にキューバからの追放を要請するが、キューバ政府が拒否、米政府はLucianoがキューバ国外へ出るまで医薬品のキューバへの供給を全面禁止、Luciano,
Lansky, Batistaはこの禁輸に対抗してキューバからの砂糖輸出禁止で対抗しようとするが失敗し、その月にLanskyは逮捕され、4月に送還されてイタリアの土を踏んだところで再び逮された。 (以下次号に続く)
変わりゆく今日のキューバとその魅力 その4
1950年 バチスタは帰国し、1952年の大統領選に向けての出馬表明をするが、1951年12月の世論調査では支持が候補者中最下位で当選の見込みなし。1952年3月10日 最初のクーデタから約20年後、3か月後の大統領選を前にして、再びクーデタでプリオ・ソカラス大統領を倒し、政府の実権を握る。アイゼンハワー米大統領は3月27日にはバチスタ政府を承認し、ここからバチスタは米政府、米企業、カジノ時代のパートナーであるマフィアのキューバ国内での利権を保護し、自らも私腹を肥やすことになっていく。1955年にはバチスタはハバナでの大規模なギャンブル経営に道を開き、100万ドル以上の投資をしたホテルにはカジノを許可し、30年来の友人でビジネスパートナーであるマフィアのメイヤー・ランスキーがキューバでのギャンブル経営の中心人物となり、バチスタ独裁のもとでキューバは米企業と組織犯罪の利益に貢献させられることになる。
第二次世界大戦後の1950年代から世界的に観光が動き始めたのに合わせて、キューバ観光の発展も見られたが、観光客のほとんどは米国からで、ギャンブルと売春が目玉だったハバナは「ラテンのラスベガス」と言われた。
背景にはバチスタ独裁政治のもとで、米国のキューバ支配が頂点にたっし、バチスタ政府、米国政府、米国企業、マフィアの4者がキューバの富を独占し、その富の大部分が米国本土に流れる社会構造が形成された。
バチスタ本人は、ランスキーのカジノがあったHOTEL NACIONAL, MONTMARTRE CLUBその他から利益の30%を得ていた。さらに夫人はサント・トラフィカンテのカジノだったSANS SOUCI, SEVILLA-BILTMORE, COMODORO, DEAVILLE, CAPRIから利益の10%を受け取っていた。Lanskyはハバナを国際的な麻薬取引の港とし利用し、バチスタとその取り巻きもその利益の恩恵を受けた。
(バチスタと米企業やマフィアとの深い関係—映画 “GODFATHER II”, “HAVANA”)。
米の建設業者はHAVANA-VARADERO HIGHWAY, RANCHO BOYERO AIRPORT, TRAIN LINES, POWER
COMPANYなどの大規模工事を受注した。
EDIFICIO
FOCSA (1956) 35階建てで400室のアパート、ガレージ、学校、スーパー、最上階のレストランLA TORRE.HOTEL RIVIERA (1957) 21階建で客室383室、当時LAS VEGASを除けば最大のカジノホテルであり、建設費1,400万ドルの大部分をキューバ政府が出資したと言われるもので、2月10日オープンしたこのホテルはLanskyの夢の結晶だったが、すでに革命が芽吹き、ギャングと腐敗した政治家の手にキューバの未来を託すことなどあり得ない情勢となっていた。HOTEL HAVANA HILTON (1958)が建設され、ハバナ最大のホテルとなった。
一方でキューバ国民はストライキ権など憲法で保障された国民の権利行使は剥奪され、民主主義は無視されて、利権に縁のない大多数の国民は厳しい生活を余儀なくされた。
1953年7月26日フィデル・カストロ率いる青年たちによるモンカダ兵営襲撃に失敗し、サンチアゴデクーバの市民病院に設置された法廷で、自己弁論(「歴史は私に無罪を宣告するだろう」)を行い、10月の判決で15年の刑を受け、ピノス島の刑務所へ。
1954年 対立候補のいない大統領選でバチスタが大統領になり、大きな権力を握る。
1954〜56年のあいだにキューバ経済のほぼすべての戦略的部門—石油、公共サービス、石油化学、鉱山業、砂糖以外の製造業、観光、建設—への米国からの投資が4倍に急増した。大手スーパーチェーンや大型の観光施設を米が支配していた。
革命前の貿易の80%は米国。
1955年5月15日 カストロをはじめ刑務所にいた青年たちを恩赦で釈放、国民の不満をなだめるとともに、社会に復帰したところで暗殺するとの噂もあり、カストロたちはメキシコに亡命。
1955年末には学生を中心に反バチスタ闘争が起こり、デモが頻発、武装警官との衝突も。José A. Echevarría 負傷、学生指導者が殺害され、その葬儀にはキューバ全国で5分間の作業中止が実行され政治的抗議になった。
バチスタは政権にしがみつき、憲法を停止し、メディアの検閲、武装警官のパトロールを強化し、反バチスタと思われる人々を連行し、暴行、拷問を加えた。
1956年3月 バチスタは反対勢力と革命の動きを弾圧で押さえ込めると考え、同年末の選挙実施提案を拒否。
1956年12月2日 グランマ号で81名が上陸、多くが殺され逮捕されるが、Fidel, Raúl, Che Guevara, Juan
Almeida, Calixto Garcíaを含む10数人がSIERRA
MAESTRAへ。
革命軍の中核を組織へ。
1957年3月13日 学生幹部会のEchevarría を含む学生が大統領官邸を襲撃するがバチスタは逃亡、その後多くの学生たちは警官に殺害された。
1957年11月30日 学生運動を押さえ込むためハバナ大学を一時閉鎖にした。(1959年の革命勝利後まで再開できなかった)(“SOY
CUBA”)。
1958年12月31日—1959年1月1日 コロンビア兵営での新年祝賀パーティーで突然のバチスタ辞任演説、午前3時、取り巻きとともに飛行機で反共独裁のドミニカ共和国へ亡命。(”GODFATHER II”, “HAVANA”, “DARTY DANCING: HAVANA NIGHTS”, “CUBA”
キューバ革命勝利1959年4月15〜27日
カストロが新聞編集者協会の招きで米への非公式訪問し、ニューヨーク、ワシントン、フィアデルフィアなどを訪問し、ニクソン副大統領(4/19)と会談するが、きわめて傲慢で人を見下した態度でFidelを扱い、アイゼンハワー大統領への覚え書きには、カストロを共産主義者として『排除すべきだ』と記した。
ハマーショルド国連事務総長(4/21)とも会談。
1959年5月17日 農地改革法を公布し、農民に土地を譲渡。
1959年10月 米国が反キューバ秘密活動の開始プログラムを承認。
1960年3月 アイゼンハワー大統領がFIDEL CASTRO打倒のためのCIA計画(キューバ国外で亡命キューバ人による準軍事組織をゲリラ活動のために訓練)を1,300万ドルの予算で承認。
Richard BissellとRichard Helmsが組織。
作戦基地がニカラグア、グアテマラ、プエルトリコに作られ、マイアミ近郊に、その他ルイジアナにも亡命者傭兵を訓練する基地が作られた。
米がキューバへの輸出禁止。
1960年3月4日 ハバナ湾に荷降ろし作業中のフランス船籍の貨物船LA COUBRE号が爆破され、101名死亡、200人以上が負傷(犠牲者の家族の一人は「CIAの仕業だったことはみんなが知っている」と述べている)。
6月29日 ソ連原油の精製を拒否したTexas Oil Company, Shell, ESSO
Standard Oilの製油所にキューバが介入。
7月6日 アイゼンハワー大統領がキューバからの砂糖輸入削減を承認。
8月6日 キューバが製油所、製糖工場、電力会社、電話会社への介入を通告。
9月 CIAのAllen Dulles 長官とRichard
BissellがFidel Castro暗殺計画にマフィアの利用を決定し、元FBIとCIAの要員だったRobert Maheuを雇い陰謀の組織を命じた。
これはカストロに儲けの多いカジノと売春を閉鎖されたことに腹を立てているマフィアのことはよく知られていたので、もし暗殺が実行されてもマフィアの仕業であればメディアにも受け入れられるストーリーだとの目論みからだった。
9月2日 米州機構(OEA)のキューバ非難への回答とし第一次ハバナ宣言を採択。
9月18日 カストロ首相が国連総会出席のためニューヨーク訪問、フルシチョフ首相、ナセル大統領、ネルー首相などと会談。
9月26日 カストロの国連総会で演説。9月28日 革命防衛委員会(CDR)が発足。
10月11日 MaheuがSanto TrafficanteとSam
Giancanaと密談し、CIAがカストロ暗殺に成功すれば15万ドル支払う用意があると告げる。
10月30日 米国が食料と医薬品を除く、すべての対キューバ輸出を禁止。
1961年1月3日 米国がキューバと国交断絶。
1月20日 ケネディ大統領が就任(キューバ侵攻計画を引き継ぐ)。
1961年3月12日 Robert MaheuがCIAのJim O’ConnellとSam Giancana,
Santo Trafficante, Johnny Roselliとのマイアミのフォンテンブローホテルでの密談をお膳立てし、フィデル カストロ暗殺用の毒薬錠剤と1万ドルを渡す。(暗殺計画はすべて失敗に終わっているが、猛毒を塗った針、爆薬をしかけたきれいな貝殻、葉巻、CIAがマイアミやGuantanamo米海軍基地で訓練し国内に潜入させた暗殺団などなど。)
(”638 Way to Kill Castro“(doc)、”JFK”)。
最終的はRoselliとその仲間たちは、たとえ指導者を排除したとしてもキューバ革命を後戻りさせることは出来ないと確信したが、米国内での組織犯罪への当局の追求を妨げるため、このCIA計画での役割を続けた。 (以下次号に続く)
変わりゆく今日のキューバとその魅力 その5
PLAYA GIRON
1961年4月15日 第二次世界大戦と朝鮮戦争で使われたB-26爆撃機6機がサンティアゴデクーバ空港やハバナのSan Antonio de los Baños空軍基地、空軍司令部などを空爆し、女子供を含む6人が死亡、数十人の負傷者が出るが、対空砲で撃退した。
この爆撃で当時12人のパイロットと11機の戦闘機しかなかったキューバ空軍は破壊を免れた。
後に判明したところによれば、米国人要員は上官が耳寄りな報告を喜ぶのが常なので、キューバ空軍を全滅させたとの報告がLangleyの作戦本部に届いたそうである。
キューバ外務省はこの攻撃機がニカラグアから飛び立ち、APSO
TARGET, US NAVY の文字がはっきり見える投下した爆弾の破片を、在ハバナの外交団に公表した。
4月16日 犠牲者の葬儀に参列したFidel Castro は米政府を非難し、革命の社会主義的性格を宣言し、
「貧しい人々による貧しい人々のための貧しい人々の」社会主義革命だと宣言した。
4月17日 早朝 ニカラグアのPuerto Cabezasからの航海を米海軍部隊に護送されてきた傭兵軍がPlaya GirónとPlaya Largaを攻撃。侵略の目的は海岸の先端を占拠し、反革命臨時政府を樹立し、72時間持ちこたえれば、米国がただちに承認し、軍事介入をし、そこからキューバ国民に対する戦争を展開することだった。
キューバ側は民兵、労働者、農民、革命軍、警察の戦闘員がただちに反撃。空軍も敵が破壊されたと考えていた少数の旧型飛行機で敵を攻撃し、敵機5機を撃墜、敵艦4隻を沈没させ、民兵部隊を空から援護した。
夕刻には対空砲、曲射砲の部隊と戦車隊が反撃に加わり、真夜中から18日の明け方にかけて、砲兵隊と戦車隊が絶え間なく敵に攻撃を加えた。
4月19日 革命勢力が侵略者を押し返し、明け方には製糖工場を攻撃した敵機を撃墜した。撃墜した5機のうち4機の操縦士は米国人だった。午後5時30分には傭兵軍はPlaya Girónで敗北した。こうしてペンタゴンとCIAが苦心して練り上げた計画は72時間であえなく潰えたのである。帝国主義はラテンアメリカで初めて大敗北を喫したのである。
この侵攻が失敗したのは、計画も装備も悪かったからだと言う人々もいるが、騙されてはならない。計画も十分だったし、選んだ攻撃地点も理想的な場所だった。米国の権力者と傭兵たちの大きな誤算は、キューバ国民が“共産主義”を倒すため呼応して立ち上がるだろうと期待をいだいたことで、キューバ国民の意思と勇気を過小評価したことである。
キューバ革命は当時の社会的、経済的抑圧への回答であり、新植民地的地位からの脱却だった。新政府はこのような最悪の状態を緩和するため、家賃の値下げ、識字運動、農民への土地の分配などの政策で、国民の人気を集めていたのである。
侵略者たちはキューバ人にとってなんの期待も利益ももたらす者ではなく、まして解放者などではなく自分たちの財産を取り戻し、59年の革命前の腐敗政治を再び自分たちで手にしたい者たちだと見られていた。また、ケネディ大統領が十分な支援をしなかったという向きもあるが、ケネディもCIAも革命政府とFidel Castroには国民の支持があることはよく知っていたので、米の軍事介入が双方に多大の被害を与えるのを回避したかったのもその一因だった。しかし、この米国が指揮した計画の惨めな失敗が、その後ケネディを追いつめる結果にもなるのである。
1961年11月 Playa Girónの敗北は、ケネディに分別をもたらさず、復讐に駆り立てた。
失敗の分析の任にあたったTaylor委員会は、「反カストロの政治、軍事、経済、宣伝活動のあらたな方策に着手する」ことを勧告した。
ここからケネディ大統領が承認した新たな秘密作戦計画“マングース作戦”が準備され動き出したのである。
1962年1月3日 ローマ法王ヨハネ13世が1949年のピオ12世の勅令を適用し共産主義政府へのカトリックの支持を禁止。
1962年1月22日 米の要請でキューバを米州機構(OEA)から排除。
2月20日の“Operation Mongoose: The Cuba Project”by Brig. Gen. Landsdale”という文書(当初TOP
SECRET/SENSITIVEと分類され、いまだに重要な黒塗り部分がある)には冒頭に目標として、「1961年11月30日の大統領覚え書きの趣旨にしたがい、米国はキューバ国内から共産主義政権を打倒し、米国と平和共存できる新政権を樹立するキューバ国民を援助する。」と記されている。これは情報活動、破壊活動、政治活動の調整されたプログラムであり、「1962年10月までにキューバ国内に反乱を起こさせるのが目標」となっている。
第1段階 1962年3月 行動開始
第2段階 1962年4〜7月 革命のためキューバ国内での必要な作戦を強めるとともに、キューバ国外からの重要な政治、経済、軍事を含む支援を実施する。
第3段階 1962年8月1日 最終の政策決定を検証する。
第4段階 1962年8〜9月 ゲリラ作戦に入る。
第5段階 1962年10月第1〜2週 反乱を起こし共産主義政権を打倒する。
第6段階 最終段階 1962年10月中 新政府を樹立する。
行動計画としての、米国その他の外部からの援助で、キューバ国内でキューバ人によるキューバの共産主義政権の打倒作戦計画は
1、キューバ国内での基本行動計画
2、政治支援計画
3、経済支援計画
4、心理作戦支援計画
5、軍事支援計画
6、破壊活動支援計画
7、情報活動支援計画
文書配布先(写し番号)
1 大統領
2 司法長官
3 Taylor将軍
4 国務長官(Johnson国務次官補を通じて)
5 国防長官(Gilpatric国防次官を通じて)
6 中央情報局長官(CIA)
7 文化情報局(USIA) (Wilson副長官を通じて) (1953発足-1999解散)
8 国務省(Mr. Goodwin)
9 国防省(Brig. Gen. Craig)
10 CIA (Mr.
Harvey)
11-12 作戦司令官 (Brig. Gen. Lansdale)
(以下次号に続く)
変わりゆく今日のキューバとその魅力 その6
大失敗に終わったプラヤヒロン侵略の後、ケネディ政権は要員を再結集し、カストロ打倒のため新たに大規模な秘密行動計画を開始した。
これがOperation Mongooseと言われたテロ活動、破壊活動、指導者暗殺計画、武力侵略などを含む秘密作戦で、大統領が実物のJames Bondと見込んだ抜群の秘密活動の専門家であるEdward Lansdale空軍准将の指揮下で動き始めた。
1962年2月 まずカストロのイメージダウンのため「すべてのメディア」を利用することから計画を始めた。(ケネディ暗殺に関連する文書の公開を検討する議会の委員会(ARRB)の努力によって、この秘密心理作戦PSYOPの全容は公開されている)
この中にケネディ時代の国防総省の反キューバ秘密行動への関与、Craig准将の提案(政府高官を殺害したキューバ人に報償を与える。フロリダから打ち上げられるスペースシャトルの失敗をキューバのせいにする。グアンタナモ米海軍基地への攻撃をキューバ側から受けたと偽装する。キューバ国民を失望させるため、カストロが両脇に美女を侍らせ、豪華な食事を楽しんでいる偽の写真をでっち上げ“私の配給物資は別物だ”との写真説明をつける。)
Craigのこのような提案はほとんど実行されなかったが、米政府が支援する秘密作戦で多くの反カストロ宣伝作戦が実行された。Voice of America放送、キューバに関する国務総省声明、それらはOperation
Mongooseの秘密計画の効果をできる限り高めるためのものだった。
多くのメディアを通じた秘密作戦はCIAが担当した。
秘密心理戦争には反カストロのラジオ番組の制作と普及、ニュース番組、本、定期刊行物などが含まれていた。
CIAは秘密裏に亡命キューバ人の政治グループ「キューバ革命評議会」をでっち上げ、それを宣伝活動の主な媒体にした。
CIAのRadio Free Cubaはキューバ島のちかくに浮上した海軍の潜水艦から地下放送を発信し、キューバ国内からの放送を偽装した。
また、「心理作戦グループ」には国防総省、国務省、CIA, USIAの高官が反カストロの世論を作り出すために毎週集まって知恵を絞っていた。しかし、キューバ国民が革命政府に反対して立ち上がることはなかった。このLansdaleプロジェクトは1962年10月中旬のミサイル危機の中で中止された。
しかし、Operation Mongooseの方式は米国のキューバ政府転覆計画の一部として、破壊活動や経済戦争とともに反カストロ心理戦争は、現在にいたるも継続されている。(経済封鎖の続行、米への不法移民をそそのかす「キューバ調整法」、在ハバナ米国利益代表部が資金を出し指揮してキューバ国内で反政府活動を煽動などなど。)
CRISIS
DE OCTUBRE, MISSILE CRISIS (1962年10月22〜28日)
1962年3月7日「米の軍事行動を正当化する挑発を作り出す」提案が統合参謀本部からあり、その3日後、国防長官からキューバへの軍事介入を正当化する口実になりうる一連の方策が統合参謀本部の検討にゆだねられた。
1962年5月29日、米のますます高まる反キューバ活動のエスカレーションのなかで、ソ連共産党中央委員会幹部会員が率いるソ連代表団がキューバに到着し、米国がキューバを侵略しないようにし、世界の社会主義の立場を強化することを目的に核弾頭を装備したミサイルの設置をキューバに提案した。革命指導部とソ連政府は「キューバ国土防衛の軍事協力に関する協定」に、主権国家の政府として調印した。
6月20日 ソ連軍部Operación Anadirを承認。
7月3〜16日Raúl Castroが訪ソし、Fidel
Castroの両国間の主権行為としてキューバとソ連の軍事協定を公表すべきとの見解を繰り返し述べたが、ソ連側は作戦を秘密にすることを主張した。この規模の作戦であり、キューバ上空を米偵察機が系統的に飛んでいるので、秘密を保つことは不可能なことだった。
8月の初めにはソ連部隊が到着し始め、数日後には米の情報機関はキューバにおける対空ミサイル、Mig-21戦闘機、未確認の建造物、ソ連の軍事専門家の存在を特定した。
10月16日、U-2機がPinar del Río州のSan Cristóbalにあるミサイル発射装置の存在を確認した。
同日11時、ケネディが国家安全保障会議を招集し、5日間の検討を経て10月20日に「海上封鎖」を決定。
10月21日、全米軍が警戒体制をDEFCON-5からDEFCON-3に高め、対空防衛体制を戦闘準備にして、グアンタナモ海軍基地を強化し、監視を強め、封鎖部隊を展開した(“Thirteen Days”)。
10月22日、キューバにたいする封鎖が宣言され、キューバを爆撃し、侵攻する条件が作られ、いわゆる10月危機が始まった。
ケネディがキューバに設置されたソ連の戦略兵器の撤去を要求し、海上封鎖を宣言したのにたいし、革命軍は全部隊の戦闘召集で応じた。
米軍の戦術偵察機の低空飛行が増加し、26日、司令官は翌日から低空飛行する敵機への砲撃を命令した。
27日、オリエンテ州北部上空でU-2機を撃墜。
26日〜31日にかけてフルシチョフとフィデルとの間でメッセージの交換。ソ連指導者の署名文書には、不公平な行動と小国にたいする軽視が明らかに見られた。一方でキューバの指導者のものには危険を警告し、確固とした革命の原則への愛着があった。
10月28日 ソ連が米国にたいし、施設の建設を中止し、核兵器を撤去しソ連に持ち帰ると通告。
同日午後、キューバは両大国が合意した自国領土での検証を拒否し、『5項目』の要求でキューバの立場を明らかにした。
①経済封鎖をはじめ米国がキューバに対し全世界で行っている貿易、経済への圧力を行使するすべての政策の中止。
②空から海からの武器の搬入および爆発物の発射、傭兵による侵略の組織、スパイや破壊活動を行う者たちの潜入、米国あるいはその他の共犯国の領土からのあらゆる活動など、すべての破壊活動の中止。
③米国とプエルトリコにある基地から行われる海賊攻撃の中止。
④米軍用機と軍艦によるわが国の領空、領海へのすべての侵犯の中止。
⑤グアンタナモ海軍基地の撤退と米国が占領しているキューバ領土の返還。
10月26日のフルシチョフ提案をもとに米ソは合意にたっし、両超大国にとってはこの危機は終息となった。
10月30〜31日はウ タント国連事務総長のキューバ訪問のため封鎖が中断されたが、11月1日再開された。
11月20日18:45分にケネディは封鎖の解除を命令し、革命政府は10月22日以来の臨戦態勢の後はじめて、キューバに正常な状態が戻ったとの声明を出した。
キューバは確固とした権威と信義を持って、つねに原則の立場を堅持した。
危機は回避され、米国はキューバを侵略しないと約束したが、キューバ革命にたいする米国の持続的な侵略性によって、その後の事態はキューバの安全保障を帝国主義の善意にゆだねることはできないと証明しており、キューバは国家として、平和時の部隊の存続と活動および戦時の戦略的展開と長い戦いを保証することが可能な範囲の堅固なインフラによって保障された近代的装備と大規模な軍隊を維持することを余儀なくされている。
1959年12月 農林省農業技術研究所の長重九博士、中山博士ほかの農業技師が稲作調査のため出発。
1960年12月〜61年1月 革命記念日に参加招待で民主団体、労働組合などの代表が訪問。キューバ滞在中の1961年1月米がキューバと断交。
1961年7〜8月 キューバ代表が原水爆禁止世界大会に参加。以来、ほぼ毎年欠かさず参加。
(2011年はアンドレス参事官、アレイダ ゲバラさん)。1962年 キューバがまぐろ延縄漁船5隻を、大分県の臼杵造船所で建造し、漁労技術指導のため、日本から延べ約100人の漁業技術者がキューバへ。(70年代の初めまで)最後の2船が出港したのが10月のキューバ危機の緊張のさなかで、スエズ運河経由でキューバへ。 (以下次号に続く)
変わりゆく今日のキューバとその魅力 その7
1963年2月14日 日本キューバ友好協会創立
1963年7〜8月
モンカダ兵営襲撃10周年記念式典に、自民、社会、共産各党代表、国際貿易促進代表、朝日、読売、毎日各紙の記者が訪問。
11月22日 ケネディ大統領暗殺。
ジョンソン大統領になり、ラテンアメリカでキューバの二の舞は許さないという対キューバ強硬政策が特徴となる。
1965年10月 最初の国外脱出事件、国を出たい人々の出国の便宜のためBoca
de Camarioca港を出航場所に。
1966年11月22日 米国に到着するキューバ人に例外的に便宜を与えるという不法移民を奨励する“キューバ人調整法”を米国議会が採択。
1969年1月22日 ニクソン大統領になり、フィデルの態度が変わらない限り対キューバ政策に変化はないと言明。在任中の1973年に最初のハイジャック防止に関する両国の協定が調印された。
1972年7月12日 キューバがCAME(いわゆるCOMECON)に加盟。
1974年8月8日 WATERGATE事件でニクソン辞任、フォード大統領になり、対キューバ政策はOEAの決定にもとづくと言ったが、実行せず。
1974年 パナマ(8月22日)、バハマ(11月30日)ベネズエラ(12月30日)がキューバと国交回復。
1975年 キューバ共産党第1回大会
キューバの基本データ
面積 110,922平方キロ(本州の約半分)東西 1,250km 位置 フロリダのキーウェストの南145km
人口 1,120万、
80万人の大卒
キューバ本島、青年の島(旧ピノス島)と約1,600のcayos,
key(砂地の多い小島)から成り、その海岸線はその他すべてのカリブ海の島々を合わせたより長く、300以上の良質な細かい砂の白い浜辺がある。
これがsol y
playa (sun, sea and sand)太陽と砂浜と言われるキューバの魅力の中心である。
革命前(1945-58)の観光事業は、第2次世界大戦後の50年代から始まった。キューバ最大の産業で、一番の外貨収入源であり、雇用を支えていた。最大のピークは1957年で27万人以上の米観光客が来て、全体の約90%を占めていた。これはカリブ海地域全体の3分の1であり、プエルトリコ、ジャマイカ、バハマより多かった。観光客のお目当ては太陽と海と砂浜は別として、ギャンブル、ナイトショー、セックスだった。この頃のキューバ観光は、米国のマフィアと深く結びついていた。
革命後(1959-88)ギャンブルと不法な夜の楽しみもなくなり、観光は事実上なくなってしまった。
1960年までには米系企業を含む、主要なホテルは国有化された。
61年には数千人となり、その後20年間はほとんど零になった。
60年からの米の経済封鎖も大きな影響を与えた。
またキューバの経済 社会発展戦略のなかでも、当時のキューバを取り巻く国際情勢のなかで、観光を重視する状況にはなかったし、50年代の観光がギャンブル、麻薬、売春など組織犯罪が支配していたホテルやカジノの社会悪との結びつきが生々しすぎた。そこで、経済発展の主体を砂糖、タバコ、鉱物資源の輸出に置くことになった。
その後、1989年以前には外国貿易の85%がソ連をはじめとする東欧社会主義圏で、内70%がソ連だった。
ソ連崩壊後、「平和時の非常時」と言われる時期(89-93年)にはGDPが35%も落ち込み、経済困難にみまわれた。
経済の多様化に乗り出し、観光も見直されるようになり、すでに88年から合弁で観光開発を進めていたCubanacánとスペインのホテルグループSol
MeliáがバラデロにSol Palmerasをオープン、他にも、ドイツのLTI International
HotelsとTuxpan Hotelがオープンした。
すでに2003年には180万人の観光客が訪れ、カリブ海地域ではドミニカ共和国とメキシコのカンクンに次ぐ国になった。このことの重要な点は、米の経済封鎖でキューバをボイコットしている、この地域の最大の観光客(全体の50%)である米国人抜きで達成されたことである。
キューバの観光戦略はその社会、文化資産に基礎を置いている。
また、市場の社会主義モデルに向かって分権化の過程を進めつつ、観光と外国投資をこの発展の中心にしている。
キューバは社会主義を堅持しつつ、中国やベトナムに追随する改革をめざしているのではないが、国家が経済生産活動に指導的な役割を果たすことは変わらない。
1994年4月に観光省(MINTUR)が創設された。 (以下次号に続く)
変わりゆく今日のキューバとその魅力 その8
1995年
人民権力全国会議(国会)投資法改正案を採択し、外国投資による利益の国外送金を保証することとなった。
また、紛争解決の方法を示し、保税区域の設置を政府が許可し、(政府などによる)収用や第三者からのクレームに対し外国人投資家の立場を保証すること、さらに政府は減免措置を講ずるなど、外国投資の環境整備を行った。
これらの措置は外国企業のキューバへの投資意欲を刺激した。米の経済封鎖と1996年のHelms-Burton法にもかかわらず、経済提携企業、合弁企業の数は2003年末には403となり、内75(約19%)が観光事業で、30がホテルだった。
90年代の主流は基幹産業(石油、エネルギー、鉱山業)だったが、政府の新政策で観光に力を入れることになり、ホテル、リゾート、レストラン、小売店、空港が整備された。
90年代にはホテルやレストランで必要とされるあらゆる物が、国内生産ではまかなえず、資金不足と米の経済封鎖で、高い価格で輸入することをよぎなくされた。
しかし、観光客向けの国内生産は90年代の12%から2001年には67%に増加した。
国内生産物の購入を強制されている訳ではないので、ここでは競争原理が働き、国際的にも通用するよい製品を作るための刺激にもなっている。Nestle, Uniliver, Pernord-Ricard, Labatt Brewing, Freixenetなどとの合弁企業が食品、飲料の76%を供給し、そのほかにも携帯電話、紙製品、繊維製品、建築資材なども外資との合弁で良質の製品とサービスを観光客に提供している。カナダの建設会社がバラデロ空港、ハバナ国際空港第3ターミナル、Cayo Largo新空港をカナダ、ドイツ、スペインとの合弁で建設した。
MINTURは2004年にはスペインで、太陽、ビーチ、歴史的場所などを紹介するTVキャンペーンを放映、メキシコでは家族旅行をアッピールするなど、キューバの3大魅力(ビーチリゾート、歴史と植民地時代の建造物、自然とエコツーリズム)を中心にキューバの観光振興戦略を組み立てている。さらに健康志向の観光にもキューバの国際的にも認められている医療を活かして力を入れている。
キューバ観光がハバナとバラデロビーチに観光収入の70%と集中している現状を全国にバランスよくするように、
8地区(Habana, Varadero,
Holguín, Jardines del Rey, Camagüey, Canarreos, Trinidad-Cienfuegos)を 重点開発地域として選定している。
La Habana—国の首都で政治、経済、文化、社会生活の中心であり、La Habana Viejaは世界遺産の歴史地区である。
Varadero—観光リゾートの中心、南にはGran Parque Península de Zapataがある。Jardines del Rey—観光地として今後最も発展が期待されるVilla ClaraからCamagüeyにいたるメキシコ湾岸で、Santa
maría, Coco, Guillermoのcayos
6地区は7カ所の世界遺産を含むキューバの自然、歴史、文化の魅力あふれる地域に近いところにある。
社会主義をめざす国の一つであることも魅力である。
また、Che Guevaraを偲んで、
”Ruta Guerrillera”でゲバラの足跡を巡るのもよし、Hemingwayが生涯の3分の一を過ごしたこの地の
La FloriditaでDaiquiríを, La Bodeguita
del MedioでMojitoを飲むのも一興である。
この2つのHemingwayゆかりのrestaurante-barは現在Gran CaribeがTropicanaも含め運営している。
Hemingwayが初めてキューバを訪れたのは1928年29歳の時で、当時Key Westに住んでいて、海が大好きだった。その後メキシコ湾海流を初めて探検したさいに、ヨット「ピラール」号の持ち主のGregorio Fuentesを知る。
1932年にキューバ沿岸での魚つりのための宿としてHotel Ambos Mundosを利用した。その後もしばしばハバナへ来て同ホテルを定宿としていた。
1940年にFinca Vigíaを「誰がために鐘は鳴る」の印税で買い取り住まいとした。しかし、第二次世界大戦がはじまり、日中戦争取材のため極東へ。
1945年からFinca Vigía(現ヘミングウエイ博物館)で執筆活動を再開し、The Sea Bookをなんども中断しながら書き続けて、この草稿から、Pulitzer賞を受賞した「老人と海」(1952年)と死後の1970年に出版された「海流のなかの島々」が生まれた。
1954年にノーベル文学賞。
1956年全島に革命運動が高まりつつあるのを関心を持って見守り、Finca Vigíaからささやかな協力を秘密裏に行った。1959年ヨーロッパに滞在中にはキューバ革命勝利に満足の意を公けに表明した。
11月にキューバに戻り、1960年夏までFinca Vigíaにいて、Hemingwayの名を冠した魚釣り大会のさいFidel Castroと出会う。
米国とキューバ関係の危機の中、空港へ向かうHemingwayにインタビューしたアルゼンチンの記者にたいし、スペイン語と英語を交えて、
”Nosotros,
los cubanos, ganaremos…”と言い、
”I am not a yankee, you know?
と付け加えたと伝えられている。
Gregorio と釣り船を出した小さな漁港のCojímarにはよく通ったLa Terrazaがある。
カリブ海地域の観光に占めるキューバのシェアは
90年代の3%から2002年には約10%に増加した。
この間に911があり、国際的に観光の足をにぶらせたが、米国から年間70万人がドミニカ共和国へ旅行し、プエルトリコへ行く多くの人々は里帰りや親戚友人を訪ねると言われているなかで、経済封鎖のため米国からの観光客がいないことを考慮すれば、相当な数字だと言える。
1996年にはキューバへの観光客数が初めて100万人を超えた。
現在キューバへの観光客数でもっとも多いのはカナダであり、続いてヨーロッパ諸国のドイツ、イタリア、スペイン、フランス、イギリスなど、ラテンアメリカからではメキシコ、アルゼンチン、コロンビア、チリ、ベネズエラとつづき、それから日本、中国その他のアジア諸国からである。
ヨーロッパからの観光客は、その他の地域からの人々より長期滞在する傾向にある。
他のカリブ海諸国とは異なり、キューバのhigh seasonは北半球の夏(6〜9月)で、夏休みの時期である。だが、カナダ、アルゼンチン、チリからは冬の時期に集中している。
Sol y
playaが目的の低価格パッケージツアーだけでなく、多様化を目指して、
ゴルフコース、博物館、美術館、マリーナ、レストランその他の施設を充実させより魅力ある観光地にするための投資が行われている。
ハバナでの植民地時代の歴史的建物の修復や音楽、芸術、ダイビング、エコツーリズム、医療ツーリズム、リゾート、自然公園などである。
文化歴史遺産、低い犯罪発生率、友好的で教養ある人々、自然の魅力、独自の医療サービス、豊かな文化的生活、太陽と砂浜のキューバは、治安のよい環境とともに、魅力ある観光地になっている。安全が脅かされる場所は観光地としての発展がおぼつかないことを見れば、キューバには発展の可能性がある。(合弁会社の役員)。
観光の発展には、交通網の整備が重要であるが、
11の国際空港に外国39都市からの90のエアーラインが運行している。
またクルーズ船のターミナルの拡張整備も行われ、ハバナ港では4船が停泊できる。
革命直後から続いている米国による不当な経済封鎖に加え、他国の企業に対しても米国の法律を押し付ける不法な措置、さらにブッシュ大統領時代の1992年の経済封鎖をいっそう強化する「キューバ民主化法」、1996年のHelms-Burton法で、キューバに寄港した船はその後180日間は米国の港に寄港できない、米企業の海外会社はキューバに商品を売れない、米国籍の市民の没収された資産に投資あるいは商取引を行った外国企業は、米国の裁判所に告訴する。
そのため輸入品目によっては、他のカリブ海諸国より2倍の価格で買わざるを得ないこともあり、経済的痛手は計り知れない。観光業にとっても輸入品目を少なくすることは重要な政策となっている。
米国の経済封鎖によって、キューバは輸入価格の30%増の実質的罰金を払わされているという分析もある。
キューバには教育を受けたやる気のある労働力があり、仕事の飲み込みも早い。観光従事者を養成する学校であるFORMATURには専門学校、大学、大学院レベルの教育課程があり、毎年1万6千人の学生が入学する。
1990年に5万2千人だった観光業従事者の数は
2000年代には10万を超え、現在では11万となり、その60%が中等教育卒、22.3%が大卒、3分の1が年齢35歳以下、42.8%が女性、31.5%がと混血と黒人であり、観光は雇用創出にも貢献している。
観光が外貨収入に占める割合は、10年前には6%で、
砂糖が70-75%だったが、90年代に国の投資の4分の1を投入し力を入れたので、90年代の終わりには43%となり第1位になり、キューバ経済活性化に貢献している。
近年、急速に発展してきたキューバの観光業であるが、カリブ海諸国のなかでも、国の経済規模から言っても、まだ小さいので、たとえ米国の政策が変化しなくても本質的には発展し続けるだろう。
(以下次号に続く)
変わりゆく今日のキューバとその魅力 最終回
米国のキューバ敵視政策の一環であるHelms-Burton法は、キューバの観光事業の発展にも多大の悪影響をもたらしている。
米国務省からキューバ系米国人の接収された資産を「商取引」しているとして、米国ビザを無効にすると脅され、キューバでのホテル事業契約を破棄せざるを得なかった外国企業もでている。しかし、キューバ系米国人あるいは米企業からのクレームには、無関係の観光開発の事案であれば、さすがのHelms-Burton法も脅しも手出しはできない。
1990年代から目を見張るスタートを切ったキューバの観光業は、いまではキューバ経済の牽引車になっている。
政府は観光業からの収入の多くを観光開発と関連インフラに再投資している。
この地域の他の諸国の観光が主としてビーチリゾートなのだが、キューバには観光客を魅了する植民地時代の建造物、豊かな自然、文化的魅力などがあり、カリブ海で最大の都市であるハバナがある。
非米国系ホテルチェーンは、米国が経済封鎖を解く前に、いい場所に有利な条件で投資を行い地歩の確保をめざしている。
1990年代からこれまで延べ3千万の旅行者を迎えてきたが、数年前から年間200万を超えるようになり、2011年には史上初めて270万の旅行者の訪問を予測している。
今後の課題は、滞在日数の延長、リピート客の増加、シーズン格差をなくす努力、各地にバランスよく観光客が行くようにする。国別観光客のバランス是正、出来る限り多様なオファー(文化行事、伝統行事、歴史、建築物、音楽、映画、美術、教育関連、スポーツ、エコツーリズム、医療ツーリズム(Cubanacan グループのSERVIMED)では提携のホテルが5、病院が23、国際診療所が11、眼科が1、薬局が1ある。この分野の占める割合は現在まだ2%のみであるが、今後は発展の余地があると見込まれている。
グランマ紙の報道によれば、キューバへの観光客の数は
4年連続して記録を更新し、2011年12月13日には2010年度の2,531,745人を超えた。さらに先月の5月にキューバで開催された国際観光フェアでのマレロ観光相の発表によれば、今年1月~4月期のキューバへの訪問者数は前年同期の5.2.%増の124万人となった。
来訪者の主な国々はカナダ、フランス、アルゼンチン、ロシア、ドイツ、メキシコ、オランダ、コロンビア、ブラジルなどで、キューバも今後さらにビニヤレス、サンタクララ、レメディオ、シエンフエゴス、バヤモ、カマグエイ、シエゴデアビラ、バラコア、トリニダー、ハバナでのホテルの客室数を充実させ、
2011年のバラデロ空港とハバナ空港第2ターミナルの改修についで、サンタクララ空港の滑走路拡充工事に投資を行い、歴史、自然、文化、健康、さらに伝統的な太陽とビーチのオプショナルツアーを加えたさまざまなイベントを企画している。日本からのキューバ訪問客の増加も期待されている。